Author:大坪敬史
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よくブログを読ませていただいている、http://blog.tatsuru.comに、『そんなことを訊かれても』というブログ記事がありました。
以下、ブログからの引用ですが、
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・・・「『こうすれば大丈夫』ということができない私はどうすればいいんでしょう?」という問いに「こうすれば大丈夫」と答えてもそれは永遠の循環にしかならない。
これについてはある雑誌に書いたことを採録してお答えに代えたいと思う。
編集部からの寄稿依頼の趣旨説明は次のようなものであった。
「ダウンサイズを余儀なくされた生活空間と、いつリストラされるか分からないという職場での焦燥、このままでは老後は暮らせないのではないかという将来の不安に苛まれながら、それでも、自分が少しでも心地いい居場所はどこなのか探している」若いサラリーマン男性たちが「そんな時代の中で『やりがい』とか『生きがい』を感じるためには、どうすればいいのでしょうか?」
まことに切実な質問である。
だが、このような問いに対して、私はあまりフレンドリーな回答を処方することができない。
ここまで追い詰められていながら、なお「私はどうしたらいいんでしょう?」と、事態の解決の道筋について、「他人に意見を求める」という態度そのもののうちに、「ここまで追い詰められた」ことの主因があるように私には思われからのである。
その理路について申し上げる。
「私はどうしたらいいんでしょう?」という問いのうちには、実は「問う」という以外にもうひとつ深層の含意がある。それは「クレーム」である。
「いったいどうなってんだよ?」とか「だから、どうすりゃいいんですか、いったいわれわれは?」という言葉づかいは外形的には「問い」のかたちをとっているが、もちろんこれは「問い」ではない。
「誰かが責任を取れ」と言っているのである。「誰かがなんとかしろよ」と要求しているのである。
このような要求は「責任者がいる」状況においてはたしかに適切である。ファーストフードで頼んだ「てり焼きバーガー」が15分待っても出てこないときには「どうなってんだよ」と声を荒立てるのは「あり」である。その場合には店長が「あ、すみません」と飛んでくる蓋然性が高い。
しかし、例えばアマゾン川下りクルーズの最中にボートが転覆して、アナコンダとアリゲーターが指呼の間に望見されるというような場合には「責任者出てこい」というようなことを言うのは時間のむだである。その暇があれば、必死で岸めざして泳いだ方がいいし、それよりもまず船に乗る前に、ボートの強度やガイドの人間的信頼性について吟味すべきだったと思う。・・・
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まだまだ文章は続きますので引用はこの程度にします。
なるほど~と妙に納得してしまいました。
こういった概念、思想に共感される方々は多いと思います。なのに、世の中はこの手の議論を始めると弱者云々・・・のお門違いの話にはしってしまう現状があります。
1点、確実に言えることは現状の景況は
「テリヤキバーガー」ではなく、「アナコンダ」であることでしょうか?
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